南濱墓地 墓石調査 Vブロック
まずは配置図を作成しました。
各列をA~Vとしてそれぞれの墓石に番号をふって A-3 のように区別します。(あ~面倒だなあ)
青い四角は一族墓で、現在も祀られています。他に祀られているのは小数です。
Vブロックには毛色の変わった墓があるのですが、正体不明です。
塔婆の形をした墓が2基あるのが目立ちますが、それよりも右側の墓が黒く汚れているのが気になります。
墨を塗って拓本を取ったバカ者がいたようです。
右下の茶色い石は古い笠石に見えます。
V-8 正面 ●●大夫
先祖代々 釈 浄慶
俗名イト
右側面 宗信 ヤス ステ
妙順 喜三郎 リク
米吉 タキ 妙諦
裏面 明治三拾五年
寅七月
森末吉建之
台座 本庄川 中崎町一体は本庄という地名でした。
ですが、本庄川という川があった記録は見つけることができませんでした。
本庄川崎町のことでしょうか?
花立 加藤 この花立は別の墓のものです。
V-7 竿石転倒・破損 側面 ●年八月●
台座 本忠
左V-6 正面 西道 常●信士
妙蓮 妙安信女
右側面 先祖代々之精霊
左側面 了西
一家聖霊 右面にある先祖代々之精霊とは違う意味のはず。
宗信
裏面 安永八年巳亥七月三日●(1779)
台座 本庄村
萬屋
卜原
右V-5 正面 教證信士
妙證信女
右側面 教順信
左側面 義間信士
妙光信女
裏面 天明 天明年間は1781-1789年の9年間でしたので、この墓は
台座 よろ川屋 V-6の数年後に建てられたことになります。
重右衛門 よく似た墓ですが、同じ「萬屋」ではないと思うのです。
4基の墓は台座もなくなっています。一体どこへ?
円柱のものは近年のコンクリートで墓とは何の関係もありません。
裏が見えている墓V-12は明治末から大正にかけて亡くなった方のものです。
V-12 正面 正信 夢昭
教享 尼妙證
光善
右側面 先祖代々
左側面 圖尭
尼榮重
裏面 大正十三年六月 槁本伊之助
大正十一年十月廿七日
政次郎 二十才
俗名 大正十年六月丗日
宗七 八十九才
明治四十五年六月廿八日
百太郎 十七才
台座 本庄村
橋本氏
花立 橋本氏
かなり大きな墓石です。枠石は近年に整備されていますが現在は祀る人はいません。
V-4 正面 山田家累代之碑
右側面 明治四拾弐年五月
山田藤吉建之
立派な墓石ではありますが、これだけしか刻まれていません。
墓周囲の境界石は明治よりもっと新しく、昭和のものでは?
花立 山田
左V-3 正面 孝誉紫雲禅定尼
台座 黒崎家
裏面 大正八年十二月五日
女性が亡くなって実家が墓を建てたのです。
黒崎町に近いですが偶然の一致では?
右V-2 正面 浦川萬助墓
右側面 安政五年(1858)九月建 明治まであと10年
台座 門弟中
門弟に何を教えていたのかサッパリわかりません。
鉄の手すりは明治以降のもので、浦川の子孫が設置したのでしょう。
でもなぜ手摺を?
大きいのですが、シンプルで読み解くにはやっかいです。
V-1 正面 角谷家之碑
右側面 明治三拾五年五月 角谷●●●建之
花立 角谷
左側より順に
V-15 正面 大信
了●
右側面 ●●●
尼妙欽
左側面 尼●●
尼●●
裏面 慶応●●●月●●之
墓石はそのままに敷石を近年になって新調したものです。
V-14
V-13 正面 先祖代々 浄圓
妙達
右側面 善達 證智
祐証 妙喜
左側面 道了 妙壽
証信 浄正
浄西 妙誓
裏面 弘化三年丙午(1846)五月立之
台座 本庄
伊八
花立 山田
中央2つの墓が謎です。四角の墓石にはまったく何も刻まれていないのです。
さらに、台座には水盤の凹みも花立の穴もありません。
一体誰のものなのか、いつ頃のものなのか不明です。
V-9 台座右側面 吉●
五九●
V-10 台座正面 吉崎氏
墓
どうもこの2つの墓は吉崎氏のものらしいのですが、それ以外は不明です。
なぜ名前を彫らなかったのか? 他人の目に晒すのを憚る名前だったのか?
たとえそうだとしても、なぜ2つあるのか? 1つに合葬しない理由があったはず。
私にはその程度しか想像できません。
V-11 正面 釈 善光
先祖代々墓
釈 妙善
右側面 善證
妙貞
左側面 證順
妙専
裏面 天保十一庚子年三月下浣(1841) 建之
台座 本庄村
中ノ
嘉兵衛
この墓も実は不思議な点があるのです。パッと見るとごく普通なのですが。
V-14 正面 玄了 妙林 貞源
釈 先祖代々 了玄 覚圓
貞吟 了清
右側面 浄圓 尼妙證
尼妙宗 尼妙暁
浄暁
左側面 尼教昭 尼妙順
浄證 尼智孝
裏面 大正七年八月一日
○○ツネ建之
台座 本庄村
●●
花立 ○○
①先祖代々の文字の上に「釈」があるのはおかしい。
もともとは「先祖代々」だけだったのでは?後で戒名を追加したように見える。
②正面左端中段に文字を削ったような痕跡がある。
名前を後で消すことに何の意味があるのか?
③両側面に尼が大勢いる。(女性という意味)
数人が混ざることはあっても、これほど多いのは何か理由があるはず。
この疑問は思わぬ場所の資料にヒントがありました。
北堀江の阿弥陀池の調査で入手した堀江遊郭の関係者名にこの墓の建立者があったのです。
ここからは全くの妄想です。何の根拠もありません。
本庄村の何某が堀江遊郭に貸座敷を経営しており、芸妓を多数かかえていました。
芸妓はもちろん芸を売るのですが年齢や病気で続けることができなくなった芸妓を
放り出すことはせず、何らかの世話をしていたのでしょう。
亡くなった彼女達を尼として(実際には尼ではなかったが)葬ったのです。
問題はここからです。
せっかく墓に葬られても、貸座敷は戦争末期の空襲で焼け店主もいつか亡くなり
墓の世話をする人もいなくなったのでしょう。
なにしろ家族の墓ではないんですから。
墓を建てた大正7年の遊郭関係者一覧に店主の名が残っています。